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祈る心

先日スタッフ参加した龍村ヨガの冥想講座のテーマは”聖フランチェスコに学ぶ、祈りの瞑想とその思想”でした。  私は、高校時代、家が近かったため、キリスト教系の高校に通い、聖書を読んだり、讃美歌を歌ったり、礼拝をしていましたが、当時は全くその意味を理解もせず 笑  ただなんとなくしているだけで、宗教心の本当の意味も知らずにいました。  聖フランチェスコと言えば、”平和のための祈り”が有名です。  キリスト教についてほとんど理解のなかった私も沖ヨガの合宿に参加し、読経や朝の呼吸法の時間にはじめてこの祈りを読み上げたときには、自然と涙がでてきました。  —————————————  <平和の祈り>(文語体) ああ主よ われをしておんみの平和の道具とならしめたまえ われをして憎しみあるところに愛をもたらしめたまえ 争いあるところにゆるしを 分裂あるところに一致を 疑いあるところに信仰を 誤りあるところに真理を 絶望あるところに希望を 悲しみあるところによろこびを 闇あるところに光をもたらしめたまえ  ああ主よ われをして慰めらるることを求めずして慰むることを求めしめ 理解さるることよりも理解することを 愛さるることよりも愛することを求めしめたまえ  そは われらは自ら与うるがゆえに受け ゆるすがゆえにゆるされ おのが身をすてて死するがゆえに とこしえのいのちを得るものなればなり  —————————————   そんな私でも、沖ヨガで、ヨガの哲学性を学ぶうちに、祈ることの意味も、だんだんと自分のなかに変化がでてきました。  聖フランチェスコのような無所有であり、奉仕の心を自分のなかに作ることは、俗的な私には大変なのですが、、沖ヨガでは”祈ることは他をわかろうとすること”だと言います。  頭では理解しても、実行するのはなかなか難しいもので、ちょっとした誰かの一言でカチンとくるし。自分の弱いところをつかれればガクンと落ち込むこともあります。  だけど、その言葉の一部を切り取らずに、その人とよく向き合ってみると、ああこの人もなにか傷ついていた背景があったのだなと理解できたり、思いやることも。  そして、自分も無自覚に、無神経な言葉を発していることにも気付きます。  沖ヨガの面白いところは、さらに”せめて半聖半俗で生きよ”と続きます。  俗心だけでは、宗教心は身につかないし、聖的なことだけでは俗社会で生きられないから。です。  私は、整体の施術をしますが、施術をしていると、その人に付属している様々なものをとっぱらって、その人自身と向き合うこと、身体の反応、心の反応と向き合うことが絶対に必要になります。 経歴や、属する宗教、国、立場、肌の色、さらに、人間、動物。私たちを縛っているカテゴリーで物事を見ていないか、常に自分を見つめていきたいものです。    ————————————— 沖正弘先生著書 「生きている宗教の発見」より引用  この宇宙に心のないものは一物もありません。日常生活はすべての心を理解するためにあると いえます。理解するためには、相手の心を自分の心とする以外に方法はありません。相手の心を わかろうとする訓練法のことを、ヨガでは祈りといいます。   祈りと願いは違います。祈りとは、相手の心を自分の心にすることです。相手の要求を読みとり、立場を理解し、その人達に対して自分はどう考え、どう受け取り、どのような行い方をした らよいかをつかまえることです。そして、その一つ一つを神に結びつけて考えることが祈りなのです。   ※ ここでいう神とは、それがなければ一切のものは存在し得ない根本的なもの、すなわち生命のことです。「生命即神」

きえ/KiiYOGA(@kiiyoga)がシェアした投稿 – 2020年 7月月7日午後7時10分PDT

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